読みました。安田理央氏の『痴女の誕生』。「アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか」のサブタイトルの通りなので、苦手な方はブラウザバックでお願いします。生々しい話はないですけれど。
日本のアダルトメディアの歴史を、作品や当時の監督のインタビューなどを織り交ぜて淡々と綴った内容です。淡々、と言いつつも他観ではなく主観的な描かれ方なので、当時の空気感も垣間見えて面白い。ジャンルごとの起源や変遷、男女の性に対する意識(というかブーム)の変化など、記憶と照らし合わせて「ああそうかも」と頷く部分が多かったです。
特に「男の娘の時代」の章の最後の一行は「ああそうなのか!」という再発見感が強かった。アダルトメディアの「幻想の行き着く先」について、一周回って当たり前のことを思い出した気がします。
それで。この手の歴史ものって、自分の経験と同調させて何か語りたくなるんですが、少し及び腰になるわけです。実はこの記事自体、あやふやな知識が怖くて法律やテレビ出版の自主基準などを調べて軌道修正した結果原文がほぼ残らなかったんですけれど、やはりどこかタブーの領域感がある。
相手のある話であれば勝手に話題にされたくないだろうし(本人にわからない形でフィクション混じりで書かれるのも嫌だろう)、最悪、名誉毀損やリベンジポルノ法的な領域もあり得るわけじゃないですか。
それに青少年の目に入る可能性の場で書くときは、刑法(わいせつ罪関係)や青少年関係の条例が頭に浮かびますし。ろくでなし子さんの逮捕だって記憶に新しい。これを書いている「はてなブログ」というサービスの利用規約でも、
c.倫理的に問題がある低俗、有害、下品な行為、他人に嫌悪感を与える内容の情報を開示する行為。ポルノ、売春、風俗営業、これらに関連する内容の情報を開示する行為。
あたりが禁止行為になってますしね。規約に同意するボタンを押したい上、信念もなしに踏み込むのは失礼な気がする。アウトラインに踏み込むというよりは、グレーゾーンに踏み込む覚悟があるかみたいな話になるんですけれど、...我ながら頭固いと思いつつ、この分野への迂闊に足を踏み入れちゃいけない感があるんですよねぇ。
そんなことをぐるぐると考えてタイトルの「表現規制に思いを馳せる」になったんですが、『痴女の誕生』でも、たびたび表現規制がジャンルの盛衰の契機になってます。ビデ倫・映倫の自主基準変更でジャンルが衰退して別ジャンルが興隆、とか、規制対象外のインディーズが盛り上がりを見せた・・・と思ったら警察の摘発を受けて解散、とか。
この分野に対する自分のスタンスは、合意の上で成り立つファンタジーに規制を持ち込むのは、と思いつつ、でも歯止めがないのは(土壌を生むし青少年育成の点から)問題があるよね、とも考え、いずれにしても見たくない人に見せないためのゾーニングはいる、に落ち着くんですけれど、でも、この本で何度も思ったことがあるんです。
制約がコンテンツを生む側面もあったんじゃないのかなぁと。当人たちにはそんな悠長な話ではないと思いますけれど。こういう文脈に持ってきていいのか謎ですが、世阿弥の『風姿花伝』における「秘するが花」感。隠されたものなら暴きたくなるけれど、オープンな場に無作為に置かれているものには誰も興味を示さない的な。
そこから表現規制とはなんぞやという思考ゲームに陥っているのですが、でも「制約がコンテンツを生む」なんて悠長なことが言えるのは、自主規制の枠組の話だろうし、そこを越えて権力の規制の枠組に入るとまさに自由はなくなるわけで。
ただ、自主規制が不十分な場合に権力の規制余地が出てくるとすれば、ある程度自主規制も厳しさを演出すべきなんだろうか、いやそれは本末転倒だし・・・と考えたあたりで自分の脳はショートを起こしたんですけれど、当時のAV監督たちはそのラインの見極めに四苦八苦したんだろうなぁと。文中、不意に「摘発」という単語が普通に出てきて、そうだその領域なんだよねこれ、と我に返ったりしたんです。
軌道修正しすぎたせいで、グルグルした頭の中をそのまま書いた感じになっちゃいましたが、でも再発見の多い、面白い内容です。知らずにタブー視するのも違う気がするし。しっかりした感想は「インターネットの備忘録」が素敵です。自分はこちら読んで購入決めたので。
さて、読み終えて思ったんですが、あの、これ本当に、このジャンルに興味ある人にとって教科書的に必携な名著だと思いました。 「外からヒキで見ておおよその歴史をまとめた」タイプの書籍ではなく、ど真ん中で活躍していた人が、ものすごい情報量とともにリアルな経験から得た視点をフル活用して書ききった、という感じで、説得力と情報量が、スゴい。
原始的な欲求によりそって技術は浸透してきた/安田理央「痴女の誕生」読んだ - インターネットの備忘録